“リストの再来”と称されたピアニスト、レオ・シロタの娘として1923年ウィーンに生まれたベアテ・シロタ。作曲家山田耕筰が、父親のレオ・シロタを反ユダヤ主義の欧州から招き1928年に東京で演奏会、翌年彼は再来日し、1931年には、東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授に就任した。

5歳のベアテは両親と東京乃木坂に住み、1936年にはドイツ学校から、アメリカンスクールへ転校し、自身の家庭の自由な雰囲気とはかけ離れた、抑圧された日本の女性達の実態も見聞きする少女時代を過ごした。
そして15歳で米国のミルズカレッジへ進学、両親と離れて暮らし始めたが、1941年に日米開戦となり、両親との連絡・送金も途絶えた。

終戦1945年の12月、彼女はGHQ民間人要員を志願し来日し両親と会えた。翌年、日本国憲法の草案委員の一人に起用され人権小委員会に属し、日本女性の状況を知る彼女は、女性の地位向上に関して様々な条項を書いたが、その多くはGHQの委員会で削除された。然し、彼女が思いを込めた人権は第14条に残り、そして男女平等は第24条となった。

翌年7月ベアテは両親と、GHQでベアテと同時期、日本語通訳であったジョセフ・ゴードンが待つNYへ帰国、1948年1月結婚、ベアテ・シロタ・ゴードンは、翻訳の仕事をしていた。
1952年秋、ロックフェラー財団の援助で、日米の指導的立場の人物交流の第一陣として日本から市川房枝が渡米し、ベアテはその通訳を務めたが、日本国憲法との関わりは秘密だった。以後、彼女はジャパンソサエティ、アジアソサエティに属し、日本・アジアの芸術文化を米国に紹介し続けた。

1946年11月憲法公布、日本初の女性の選挙権行使では、39人の女性議員が生まれ、労働省発足、婦人少年局長に山川菊栄が初代局長に選ばれた。
1947年、家父長制度が廃止、さらに教育基本法が施行され男女共学が実現。1980年には、高橋展子デンマーク大使が、国連婦人の10年の女子差別撤廃条約に署名、85年に批准、そして赤松婦人局長の下で男女雇用均等法の成立となった。国籍法の改正、家庭科の男女共修と進み、また、民間企業における男女同一賃金に関する裁判の一審敗訴に、支援の呼びかけも広がり、国連の委員会からの日本政府への勧告の反映もあり、二審で和解、賃金のみならず昇進も獲得。女性の視座を論じ、大学では「女性学」も誕生。
1999年、男女共同参画基本法も成立、女性たちの職業・活動分野も多面化した。国際的には緒方貞子国連難民高等弁務官の存在も注目された。

1993年TV番組「日本国憲法を生んだ密室の九日間」放映がきっかけとなり、ベアテは日本で講演を毎年行ってきた。この映画の最後に「日本の女性は心と精神が強い、みんなで頑張って欲しい、明るい将来のために。私が草案した権利を生活に活かし世界の女性達のためにも働きかけてください」と彼女は期待を語っている。