前にもGruietziでご紹介した「ベアテの贈りもの」上映会は、5月12日、13日の2日間行われ、大変盛況でした。四捨五入で合計400人の方々に、この映画を見て頂けて、この企画を引っ張って来たPittier亮さんと二人、感激しています。映画をご紹介し、切符を売る過程では、いろいろな方たちの、日常では気づかなかったご好意や、心の底に秘めた熱い思いに気づかせて頂いた、良い経験でもありました。

日本の外から提案があった

映画上映会のきっかけは、私、栗崎が、BPW Geneva(Business & Professional Women, イギリスに事務局を置く国際NGOのジュネーブ支部。会員約70人)の役員をしていたことから始まります。BPW Genevaでは、毎月、働く女性のネットワーキングを兼ねた例会を催しています。2005年夏のこと、2005-2006年度の月例会の企画について役員会で頭をひねっていたときに、ひとりの役員が「日本人会員が3人もいるし、他の会員の中にも日本に関心のある人たちが何人もいるのだから、一度日本をテーマにした企画をやりましょうよ」と提案したことから始まりました。提案者は日本人ではなかったのです。その話し合いも、日本語ではなくフランス語でした。

アイデアは降ってきた

「ベアテの贈りもの」を上映してはどうか、というアイデアは、秋になって同じBPW Genevaの会員で、友人のPittier亮さんとあれこれ企画を考えていたときに、ふっとどこからともなく私の頭に降ってきました。
この映画のことは、私は、あるメーリングリストで紹介されたので、以前から知っていました。映画の企画に最初から携わったメンバーの一人が、ジュネーブにも来てくださった黒岩秩子さんでした。黒岩さんと私たちは友人だったので、すぐに黒岩さんに、ジュネーブでベアテを上映したいんだけど、どうかしら、と相談すると、間髪を入れず、英語版フィルムを借りる国際交流基金の担当の方や、映画の監督をされた藤原智子さんを紹介してくださいました。それが昨年10月のことでした。
以来、亮さんとわたしは、助け合い励まし合ってここまで来ました。金無し、人手無し、知識無し。二人とも、本業のフルタイムの仕事を抱えてのプロジェクトでした。その過程で、なんと多くの神様に出会ってきたことか。振り返ると信じられません。「16ミリフィルムってなーに?」から始まり、知らないことが次々に現れましたが、困っていると誰かが手を貸してくれました。そうすると、スルスルと解決の糸口が解けてゆくのでした。その繰り返しでした。中でも、黒岩さんはその最たる方でした。有り難うございます。

女性たちの熱い思いが映画を作った

「ベアテの贈りもの」は、商業映画ではありません。2005年5月3日、憲法記念日を期にしての封切り以来(初回は岩波ホール、高野悦子支配人のご支持もあり、10週間のロングラン)、日本では、殆どの場合、各地のボランティアの方たちの手によって、自主上映として多くの人々に観ていただいてきました。
そもそも映画を企画したのは、主に仕事を退職され、その後も、いろいろな社会的活動を続けられてきた日本の女性たちです。その原動力はなんだろうか、と考えたのですが、自分がしたいことを実現するために妨げになる障害を、次の世代には少しでも低くしたい、排除する方向に社会を動かしていきたい、そのために、自分の経験を生かして何かしたい、という熱い気持ちではないでしょうか。どこの国でも同様ですが、日本でもまた、働くことを含めて、女性の生き方の選択や、もっと基本的には、女性が一人の人間として、性に関係なく尊重されることに対し、多くの社会制度や、人々の意識が、それを妨げるようにできていることが沢山あるのが現実です。それは、女性の就業、昇進、保育所、年金、国や自治体の議会など、意志決定の場での女性の比率など、広い範囲にわたるのです。
憲法24条に、両性の平等が書かれたとはいえ、それは始まりです。その実現のために、戦後、多くの女性が、あらゆる場所で、機会で、コツコツ地道な努力を積み重ねてきました。時代の流れで、たまたま陽の目を見た人もいるでしょうし、全く誰にも知られずに続けた人もいるでしょう。そういう先人たちの闘いを記録して、現在と未来を担う女性、男性に、自分たちの今ある位置を確認してほしいという気持ちも企画委員となった方々のお気持ちの中にはあったのではないかと察します。

全く迷わなかった

ベアテの映画を上映しよう、と思いついたとき、亮さんも私もその映画を観たことさえありませんでした。なのに、これは皆に共感を持ってもらえる!やりたい!と、二人ともストンと信じられました。全く迷いはありませんでした。私は、ベアテさんの自伝、「1945年のクリスマス」を以前に読んでいたので、彼女の功績とご苦労は知っていました。けれども、それだけでは、BPW Genevaの役員たちを説得するには不十分?とは考えもしなかったのです。これは行ける、と確信していました。今から思うと、まるで、ベアテさんの高い志に導かれたかのようです。
私は、はじめは、ベアテさんのお名前の綴りさえわからず、黒岩さんに教えていただいて、ウェブで検索を始めました。その頃、折良く日本に行く機会のあった亮さんはーーこれも、今思えば、ベアテさんのお導きですねーー東京の国際交流基金の映画担当者を訪ね、フィルム貸し出し願いを直接受理していただきました。そして「1945年のクリスマス」も買って、帰りの飛行機の中で読んできたそうです。
その後、12月、パリの日本文化センターで、「ベアテ」が上映されることがわかったので、二人で見に行くことにしました。「やっぱりプロモーションをする人間が映画を見ないことには」という気持ちで行ったのです。初めて見た映画は、私たちの予想以上に、素晴らしい映画でした。亮さんと私は、ますますこの映画を一人でも多くの人に見て欲しいという気持ちを強めました。

また、これも偶然なのですが、パリでの上映には、監督の藤原智子さんがお見えになっていました。かねて、黒岩さんからご紹介されていたことでもあったので、亮さんと私は夕食をご一緒しながら、ご両親が大変平等だったという、藤原さんの育たれたご家庭のお話し、ご就職の時にドキュメンタリー部門だけが女性を受け入れていたことが今のお仕事の発端だったこと、お子さんを育て上げられてから再び映画を撮り始めたということ、また、ベアテさんのご親戚に当たる方との、パリでの思いがけない遭遇など、いろいろなお話しを楽しく伺うことができました。

ちょっと自慢させてくださいーー3カ国語のチラシ

ジュネーブという多言語、多国籍社会に住む私たちにとって、英仏日の3カ国語でチラシを作ることは、何の不思議もない、当たり前のことでした。
映画の副題の英仏語訳がちょっと難問でした。英仏語とも、亮さんがお知り合いを当たってくださり、何人かの方(英国人の方もいらっしゃいます)に案を作ってもらいました。けれども、私たちにはどうもピンとくるものがありません。最後に一番いい案を考えてくださったのは、長坂道子さんという、亮さんのお友達です。彼女はフランス語の翻訳をし、ご自身も本を何冊か書いていらっしゃいます。日本国憲法24条をご存じで、そのうえ、女性の気持ちのわかる方でなければできない翻訳だと思いました。翻訳は、単に言葉の置き換えではないということを、改めて納得させられました。
ジュネーブ向けのチラシのデザインをしてくれたのも、日本人のデザイナー、Rollier和美さんです。日本で作った原図をベースに、3カ国語を入れる、ジュネーブで今もよく知られ、映画にも登場される、緒方貞子さんのお写真を、ジュネーブ用には表に入れる(日本向けのものは裏に入っている)BPW International の正式ロゴは今年からこれで、、、などなど、彼女は私たちしろうとのあれこれいう要求に辛抱強くつきあってくださり、御自分は連日残業して、チラシのデザインを完成させてくれました。私は、日本語を含む3カ国語の仕事は、英仏語のわかる日本人にしかできない仕事だな、思いましたが、そのうえ、そういう方がまた、デザインのプロとは!こういう方がいらっしゃるのもまた、ジュネーブだからだとも思いました。

私はチラシの裏面にある解説文を書きました。最初に英文を書きました。これは難なくできました。日本語訳も自分でしましたが、こちらは、あれこれ言葉を選択している内に、1時間ぐらいかかりました。フランス語訳は、BPW会員で、プロの翻訳者をしている友人が、快く引き受けてくれました。彼女はご両親が、ドイツ語圏、フランス語圏スイスの方で、彼女自身も独仏語のバイリンガルだそうです。こういう人が、ひょいと会員の中にいるのも、ジュネーブの BPW だからだと、道子さん、和美さん同様、あらためてこの街の持つ富に気づかされました。

解説文の方は、あの時必要に迫られて夢中で書いたものの、今になると、反省も出てきます。解説を読んで、この映画はベアテさんという人の伝記かと思いました、とある人に言われてハッとさせられたり。これから上映する方たちは、もっと適切な紹介文を作ってくださいますように。

というわけで、このベアテの映画上映史上(大げさです)初めての3カ国語のチラシもまた、女性たちの貢献のたまものです。
後日談ですが、映画会の後、この3カ国語のチラシを、黒岩さんに50枚ほど持って帰って頂きました。このチラシは、日本で、映画企画委員の方々や、チラシの原図を作成された方々に、珍しいと言って大変喜ばれたそうです。国際映画祭に出展されたときなど、日英のチラシは作られたようですが、3カ国語は私たちの作ったものが初めてだったそうです。

肝を冷やしたことも、もちろん、ありました。

フィルムが行方不明!?

月には、ウイーンから来るはずの16mmフィルムが行方不明、という事件がありました。3月にウィーンの国連で上映会があったのですが、その後、フィルムを預かった担当者が、フィルムを返却するのを忘れていたのでした。やっとそれがわかったのが、4月中旬、イースターの休みの後。そのマダムに、大至急ジュネーブに送るようにお願いしたのですが、後がいけない。彼女は「UN 外交パウチで送ったわ」と言うばかり。と言ったって、、宛先の亮さんの家はUNじゃなし。確実に私たちの手元に届く保証は何も無し。更に聞くと、実際はどういう手段で送ったのか、彼女も知らないと言うではないですか。が、私たちには、呆れている余裕はありません。その上、翌日の金曜日、彼女はオフィスを休んでしまった!上映まであと3週間。フィルムを試写して、万が一傷でもあったら、修正する時間が無い。
このときも、ウイーンのUNIDOの友人が、週末にもかかわらずあちこち連絡をとるなど、骨を折ってくださいました。最悪の場合を想定し、フィルムが届かないときのために、その友人と相談して代替手段も講じました。1週間後、朝からじりじりDHLを待って、無事フィルムを手にしたとの一報を亮さんから貰ったときは、二人、電話の向こうとこちらで、神に感謝しました!

黒岩さんが来られない!?

黒岩秩子さんは、映画の資金集めから始まり、完成後は数多くの自主上映会のために、尽力されてきた方です。ですから、今回の企画の中でも、映画だけでなく、地道な活動を続けている日本女性ご本人を、BPW会員や、ジュネーブの方たちにご紹介したいと、亮さんと二人、強く思い、また黒岩さんの太陽のような笑顔を拝見することを、楽しみにもしていました。
その黒岩さんの出発の前日、お母様の具合が急に悪くなったため、「行けなくなった」とお電話をいただいた時は、信じられませんでした。黒岩さんのスケジュールは、10日 BPW講演会、11日 記者会見、12、13日上映とびっしりでした。
亮さん、BPW Geneva会長のCathyと私の3人「どうしよう!」。代わりの人なんかいないし、穴をあけるわけにはいかないし、、、結局、講演会は原稿があったので通訳をお願いした小島さんに、その原稿をフランス語で読んで頂くことにし、記者会見では亮さんが黒岩さんの原稿を読む、映画の後の質疑応答はナシ、と一応収まりました。こういう時に、あわてず、騒がず、淡々と、次善の策を一緒に考えてくれたCathy や、「記者会見?予定通りでいいよ」、とサラリと言ってくれたStephaneに感謝の気持ちで一杯でした。物事を進めるためには、冷や汗かく人間は、本当の直接の当事者だけでいいことを、学びました。
そしたら、その深夜、日本時間の早朝、黒岩さんから「行けることになった」との電話。正直なところ、9日の夜、空港でご本人に会うまでは、二人とも半信半疑でした。母の子を思う気持ちが、奇跡をおこしたのでしょう。5月8日は、長い一日でした。二人ともパニックにさえ堕ちる余裕がありませんでした。
このときには、黒岩さんの宿泊の手配をしてくれた亮さんの迅速な行動にも助けられました。

亮さんのお話しを、直接記しましょう:
「ホテルも、チャージがかかるので急遽キャンセル。数時間前にキャンセルしたホテルは既に、ウエイテイングリストのトップに名前を載せていた人がさっさと予約してしまっていました。それからの数時間は、片っ端からジュネーブのホテルに電話することで費やされ、ようやく一部屋確保してほっとした頃、当初のホテルのマダムから「一部屋空きました」との電話。半信半疑で、取るものもとりあえず駆けつけました。60代をとうに越したと思われるマダムは、さらりと「あなたは運がいいわ」と言いながら部屋をみせてくれました。そのホテルで1番いい部屋と思われる、広くて明るい部屋でちゃんとバスタブもありました。これで黒岩さんは野宿せずにすむ、とほっと肩をなでおろしたものでした。それと同時に、恩着せがましい言葉の一言もなく、予約を調整して部屋を確保してくれたマダムの穏やかな微笑で、それまでの緊張がすっと解けるようでした。」

国境を越えた共感

観客のうち、日本人と非日本人との比率が半々ぐらいだったのも嬉しいことでした。もともとこの映画のテーマには、国境を越えた普遍性があると思っていたので、日本の方々にもご紹介をしましたが、日本人でない方たちへのご紹介にも、同じくらいの時間と力を注ぎました。送ったメールは100通以上、また、亮さんと私の行くところ、ご近所は勿論、会社の同僚、かかりつけの医者、立ち寄ったカフェ、etc. 殆ど全てにチラシを置いたり、上映会のご紹介をしたりしました。ジュネーブに集まる、数多くの国連機関にも、そこに働く友人たちの好意をいただくなどもして、私たちの手の届く限り宣伝し、またジュネーブに数多く集まるNGOにも声をかけました。
上映会に集まった方たちを見て、この映画のテーマが、国を超えて共感を呼ぶということが、ジュネーブという、際だって国際的な土地柄で証明されたように感じました。主催したBPW ジュネーブ自体も、国際的なNGOですし、ジュネーブ支部の会員もこの町の性格を反映して、出身国は様々です。その会員たちも、異口同音に、良い映画だった、日本でこんな事があったとは知らなかった、地道に闘ってきた女性たちに感銘を受けた、と言ってくれました。「ベアテ」は、日本に閉じない映画です。
私にとっては、ゲイシャ、フジヤマ、とは違う、今を生きる市民、それも女性の市民の視点から見た日本の姿を見てもらえたことは、とても嬉しいことでした。
これからも、この映画を、日本人であるなしに関係なく、広く、多くの人々に観ていただきたいと願っています。

友遠方より来たる

ジュネーブの上映会には、遠くから大勢の友人が来てくれました。黒岩さん初め、日本からこのためにわざわざ来てくれた友人たち、また、スイス国内から、ヨーロッパ各地からーーウィーン、ミラノ、ミュンヘン、モナコ、、、。二日目の上映が終わった後、この皆さんとご一緒に打ち上げ会をしました。その盛り上がったこと!皆、さわやかなエネルギーを発散させて、生き生きしていました。ベアテさんの、また映画に出てきた大勢の女性たちの、生きることへの前向きな意志が、エネルギーとなって、皆に受け継がれたかのようでした。

これで終わりではない

「ベアテの贈りもの」は、あえてキレイに物語を締めくくらずに「to be continued」というかたちで問題提起をしているのではないかと思います。女性が人権の確立を求めて遠い道を歩き続ける、その歴史は続くのです。ベアテが築いた礎を、観た人それぞれがどうやって引き継いでいくのか、その後のアクションに、映画を企画した先達は期待したのではないでしょうか。
ジュネーブでの上映は終わりました。けれども、この映画会は、各地でエコーを呼び起こしています。スイスでは、9月?10月にチューリヒとバーゼルでも「ベアテの贈りもの」の上映会を催すことになったと伺いました。勿論、お手伝いに行くつもりです。他にも、アムステルダム、ミュンヘンなどから手が上がっているようなので、わくわくします。私たちのしてきたことは、エネルギーの飛び火を起こしたみたいだと、亮さんと二人、密かに喜んでいます。映画の独仏語版はできたと聞きました、よいことです。スペイン語、中国語などにもなって、一人でも多くの方に見てもらえたらいいと思います。更に、アラビア語もーーと夢は果てし無く。映画を見たシリア出身の友人(女性)が、「アラビア語版もあるといい」とつぶやいたのが、忘れられません。

男女平等への長い道

後日談ですが、16日に東京で、この映画の藤原智子監督の芸術選奨文部科学大臣賞受賞を、映画作成、上映に関わった仲間たちがお祝いする会がありました。黒岩さんは、ジュネーブから、成田に着き、その足で祝賀会に参加されたのです。ジュネーブでの上映会の報告を聞いて、映画の企画委員だった皆さんは大変喜んでくださったそうです。また、女性の映画監督が文部科学大臣賞を受賞するのは20年ぶりだとうかがいました。ベアテさんの築いた憲法24条の土台の上に、映像芸術の世界でも、長い道がまだ続いていると思いました。

来年はベアテさんをジュネーブにお呼びしたい

亮さんと二人、来年はこの映画をジュネーブで開催される人権映画祭に出したいと、密かに考えています。そして、ベアテさんと黒岩さんにまた来ていただけたら素晴らしい!再び何も知らない状態からの出発ですが、なんとか道筋をたぐり寄せてみましょう。もしそれが実現したら、皆様、来年はジュネーブにおいでくださいね!

最後になりますが、この映画は、それ自体もちろん素晴らしい「贈りもの」ですが、更に、素敵な方たちとの出会い&再会というプレゼントまでくれました。
ありがとうございました。これもまた、私たちの受け取ったベアテの贈りものです。そして、この暖かい血の通った贈り物を、皆さんとご一緒に育てていきたいと思います。

文責:栗崎由子
この一文を書くに当たり、 Pittier亮さんの他、何人もの方のご意見、ご感想を参考にさせて頂きました。皆さん、率直なご意見を有り難うございました。