「1945年のクリスマス」(柏書房)というベアテ・シロタさんの自伝によって詳しく紹介された日本国憲法誕生の秘密。これは、日本人、特に女性たちに大変な衝撃を与えた。ピアニストの父レオ・シロタが、ユダヤ人としてナチからの迫害を逃れて東京に移住したために、ベアテさんは、5歳から15歳までの多感な青年期を東京で過ごし、日本女性の人権のなさをつぶさに見た。15歳でアメリカのカレッジに進学した後日米開戦で両親と音信不通に。戦後なんとかして日本に来ようと考えたベアテさんは、22歳でGHQの職員となった。1945年のクリスマスに来日してすぐ、日本国憲法の起草に当たったベアテさんは、女性の人権を草案の中にたくさん盛り込んだ。しかし細かいことは民法で、と押し切られ、男女平等にかかわる条文(14、24条)のみが残っている。(そのときベアテさんが憲法に書き込んでいて削られた多くの条文は、未だに民法に入れられていない。)
そのベアテさんからの贈り物を日本の女性たちはどのようにして実質的に活用してきたのか、その女性たちの姿を映像化したのが、このドキュメンタリーだ。

製作にかかわった私

私は、2003年の都知事選挙以来1年半、念願の一人暮らしを東京で楽しんだ。そのとき、赤松さんから誘われて女性の力でこの映画を完成させたい、厚労省男女雇用均等・児童家庭局長から資生堂へ職場を変えた岩田喜美枝さんの退職金がかなりの額投入されていると聞き、青年劇場で「真珠の首飾り」(ジェームス三木監督のベアテさんの自伝劇)の観劇の際ベアテさんのお人柄にも触れることができ、それなら私もできるだけの協力をと資金提供をした。去年新潟の家に帰ってくるとき、この上映会を是非新潟で、という思いを胸に秘めた。でも、魚沼地域では無理だろうと考えて、今春新潟市の女性たちに声をかけると「ちょうど、私達も上映会を考えていたので一緒にしましょう」ということになり、新潟女性会議、新潟北京ジャックの代表の方と3人で、実行委員会を呼びかけた。会場であるユニゾンプラザの都合が、すでに9月24日(土)しかあいていないということで、日取りは決まってしまった。
その後、魚沼市の人から上映会を呼びかけられ、それは私にはとってもうれしいことだった。早速実行委員会を呼びかけて、9月17日(土)に魚沼市の小出郷文化会館で午後と夜の2回の上映が決まった。ユニゾンも、2回の上映で、どちらも大人800円、学生500円。
さて、このチケット売りが魚沼ではなかなか大変。新潟市では、以前ベアテさん来日時にベアテさんの講演会を聞いたことがあるという人もあり、話はすぐに通るのだが、魚沼ではまずはベアテさんの説明からはじめなくてはならない。朝日新聞が、それに関する丁寧な連載記事を書いてくれたとはいえ、魚沼地域で、朝日新聞をとっている人は実に少ない。地域によっては朝日新聞をとっているのは、赤だ、といわれるのでとっても取る勇気がないという。だから、戸別訪問をしながら、延々と日本国憲法の秘話をすることになる。それが又、この魚沼地域で女性のおかれている状況を考えていただくことにもつながるだろうと期待を込めて。

成功裡に終わった魚沼上映会

そんな魚沼の地で、この映画の上映会ができるかと心配していたのだが、なんとか、成功裡に終えることができた。「成功裡」というのは何をさすのか、定義は難しいのだが、見てくださった方々のアンケートが、かなりたくさんあって、それら殆んどが、よかった、さらには、実行委員に上映を感謝するというのまであって、その日は、夜9時に二回目の上映が終わり、10時過ぎまで、実行委員は余韻を楽しんでいた。
この映画は、81歳のベアテさんが、日本で講演会をしている姿が全体を通じて流れていて、ベアテさんのお父さんレオ・シロタが音楽家として世界に認められ、結婚、ベアテの誕生、そして来日、それらが、世界史をバックに語られ、世界大戦(レオ・シロタの弟はアウシュビッツで消えた)、日本の敗戦、が映像をもって迫ってくる。その中で、憲法草案に男女平等、同一労働同一賃金にいたるまで書き込んだベアテさん。
かなり熾烈なやり取りのあと、14条と24条にしか彼女の努力は稔らなかった。でもその贈りものを日本の女性たちがいかに育て、使ってきたのか、を何人かの女性たちの語りでつないでいく。語りの部分が長いために、中学生の何人かは、退屈して場外に出てしまったということもあったようだ。
女性の権利というだけでなく、9条との絡みも含めて、女性のほうが、平和を希求するという点も強調されていた。はじめの挨拶をした上映実行委員長星優子さんも、このことに触れていた。ベアテさんからにじみ出てくる、優しくて、楽しい人柄にもひきつけられたようで、ベアテさんも、9条をとても大切にして世界に誇れるもの、と映画の中でいっておられた。

無料の託児

チケットが500枚ぐらい売れていたのに、実際にみにきた人が300人(昼150、夜150)だったというのも驚きだった。(いつもは歩留まりが8掛けなのに、今回は6掛け)お寺が経営する小出保育園の園長が、28枚も買ってくれたというので、お礼の電話をかけたら、保育園の研修費で100枚買って、保護者にプレゼントする、と言うではないか。これは、実行委員をとても喜ばせた。
アンケートに、「憲法を勉強したいと思った」と書かれた方があって、一人でもそういう方が出てきたということを成功と言ってもいいかなと思った。「出てくる女性たちが、みんな自信をもって堂々と発言している姿に勇気付けられた」というのも何人かあった。また、帰りがけに、「感動したから、夫と娘を、新潟会場に見にいかせます。」といって帰られた方があり、早速、24日の新潟会場のチケットを、お持ちすると約束した。
ところで、この日は無料で保育を受け入れたので19年も保育士をしていた私は、保育の担当を引き受けた。去年試写会で見た上に、今回午前中に試写会で見て、午後、夜どちらも保育担当となり、久しぶりに幼児や、学童の子どもたちに遊んでもらうことができた。
小出郷文化会館というのは、保育室がキチンと用意されているばかりではなく、親子室という部屋まである。それは、最近できた建物では当たり前になっているそうだが、20年前にできていることを考えると先見の明ありといえる。この会館を作るときに徹底して住民の意見を取り入れて作った、新潟県ではそれなりに有名な会館なのだ。館長さんが大工さんと言うのも凄い。つまり、民間人なのだ。どんな事業でも、彼は自分でチケットを買って観覧している。
保育室でも、テレビを通して、ステージを見られるのだが、それでは、なかなか集中して見ることができないので、保育担当の方にも、会場に行ってみていただき、私ともう一人の実行委員と二人で、預かった。昼夜あわせて、7人の子どもが預けられた。小さい子どもを抱えたお母さんには、特に見てほしいと言う思いがあって、無料の託児をしたのだった。

藤原監督の話

9月24日の新潟上映会が魚沼と違うのは、監督の藤原さんが30分話をしてくださったということだった。彼女は、子育てを終わらせて、47歳のときに監督に復帰し、長編映画を作り出したのは63歳からで、73歳の今日までに5本の長編を作ったという。63歳という年齢は、緒方貞子さんが国連難民高等弁務官に赴任した年と同じ。これから年をとっていく私たちへの励ましになり、そのことを始めの挨拶とさせていただき、藤原さんのお話になった。
彼女が初めて作った映画は、「杉の子達の50年」というもので、これは、学童疎開を取り上げ、10年前に新潟市でも上映会をしたのだそうだ。日本の近現代史の中で、何故日本があのような戦争に突き進んでいってしまったのか、を突き止めたくて、映画を作ってきた。ということだった。だから、今回も、ベアテさんがいう「日本国憲法そのものを、平和をもたらす国際貢献として、世界に売り出して」を強調しておられた。
私が、藤原さんの映画と対面したのは、「ルイズその旅立ち」で、大杉栄と伊藤野枝の娘、伊藤ルイさんを描いたもの。大杉栄が、中学時代をすごしたという新発田で上映会があったのを見に行った時だった。そのとき、藤原さんもきてお話され、終わってから、東京に帰る彼女と、浦佐まで一緒で、色々おしゃべりしてきたのが、5〜6年前。今回藤原さんの話を聞きながら、以前の藤原さんとは別人のように感じてしまった。そう伝えると、「あの頃はまだ始めたばかりだったのですもの」が答えだった。確かに、何が変わったのかというと、一言で言うと「自信」ということになるのかもしれない。
彼女の話で、印象にのこったのは、「映画ができて試写会を何回もしたのですが、それを見た男性が、一様に『全然知らなかった。女性たちがこんなことをしてきたって』といったことに驚きました」だった。朝日新聞で、「女の働き」というシリーズを企画して、この映画の宣伝をしてくださった早野透さんもその一人だったという。このシリーズは、今年の4月26日から始まり、16回まで連載されたのだが、1回と2回がこの映画ができるまでのいきさつ。だから魚沼でも、新潟でも、このコピーを参加者の皆さんに配ったのだった。
実は、この日も、私の敬愛する間藤侑(すすむ)新潟青陵大学教授(教育心理)が、とっても感動した、全然知らなかった、学生たちに見せたい、と言って帰っていかれた。彼の想いが実現する日を気長に待ちたいと思う。この方のことは、私のはじめての著書、「おお子育て」に書いた。当時、新潟大学付属幼稚園長をしておられ、「能動的な子ども」というテーマで、私たち現場の保母達をリードしていた方。確か、数学科出身というのも、共通点だったと思う。
この日、さすが、新潟市、と思ったのは、昼間の上映は、450席の会場が、満杯だったのに、夜は、150。小出では、昼と夜の人数が同じだったのに、夜が少ないのも、都会だからかと思った。ここらでは、土曜日でも、昼は仕事という人が、大半なのだから。

収益金の使い道

貸し出し料は、10万、二回上映だと12万とかなり安い。でも、学校などで上映しようとすると予算がないという問題にぶつかる。長岡大手高校で上映したいけど予算がないため、来年に持ち越しということを聞き、制作委員会と交渉した結果、高校生など若い方には半額と言うことが認められた。そのため、今年度中に長岡大手高校での上映が実現することになった。
収益が上がった場合には、上映実行委員会と、制作委員会と半々で分けるということが決まっていた。小出では、8万の収益が上がり、被災地支援ということではじめたので、半分の4万を、中越地震とパキスタン地震に寄付することになった。
新潟市の収益金の半分は、若い人たちに見てもらえるように、製作委員会が助成金として使う、という条件で、23万の全額を製作委員会に送った。

上映会の成果

新潟市も、魚沼市も実行委員会のメンバーが親しく話せるようになったということは勿論だが、私には、思わぬ成果があがっていた。というのは、魚沼の友人で、「私は、女で損したと思ったことはない。夫は、給料を全部渡してくれて、自分は何にも使わない人だから、私の思うように使えるし、家族のことを考えて、なんでも自由にやってきた」という人がいた。この人が、夫と二人で上映会にきて、終わってからこういった。「私たちってなんて狭い世界に生きてきたんだろうって二人で話し合って、興奮しちゃった」
実は、これって藤原監督の姿と重なる。彼女の育った家は、全く差別がないばかりか、終戦直後にお父さんがこういったのだそうだ。「これでやっと我が家も男女平等になる!」
そんな家庭で育ったことで、藤原さん自身全然被害者意識を持たなかったそうで、だから攻撃的になる必要がなく、そのことが、見た人たちに受け入れやすいのかもしれない、と言っておられた。そうなのかもしれない。赤松さんからジェンダーに関しては「オクテ」と言われてきた藤原さんだからこそできた「ベアテの贈りもの」だということが、改めて認識できた上映会だった。
被害者意識で凝り固まっていた自分の昔の姿と比べて、この二人のやわらかさの根源が突き止められた感じがした。

文責:南魚沼市浦佐在住 黒岩秩子